東京カリント(株)
| 東京都板橋区 |
| 伝えていきたい菓子がある「新伝統芸」 |
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| 左から代表取締役社長 西村直、 代表取締役会長 西村久、取締役副社長 西村光示 |
| 代表取締役会長 西村 久 |
| 戦後物資のない時代、先代により創立されて今年で56年になりました。昭和30年代の大量生産より、いち早く多品種少量生産に切り替えお客様に出来るだけ新しい製品を提供出来る体制を整えると共に、製品も本物志向へと変遷し、今日では「安心出来るおいしいお菓子作り」に取り組んでおります。 これからも幅広い情報を得、時代のニーズに合った「新しいお菓子作り」を目指し努力研究致して参ります。 |
| 代表取締役社長 西村 直 |
| 1981年の生活クラブとの出逢いに強い衝撃を受けました。 当時の私達は生協といえば『全て同じ考え方の同じ団体』との程度の低い認識しか持ち合わせていませんでした。生協によって信条や考え方がこんなに違い取組み姿勢も天と地程の差があるとは思っておりませんでした。 食の専門生協、子孫への安全安心をテーマに真剣に取り組んでいる組合員さんの姿に新鮮な感銘を受けました。 「フレー・フレー!生活クラブ生協」 「ガンバレ・ガンバレ!生活クラブ生協」 |
| かりんとうの意外史―かりんとうのルーツ |
| 奈良時代(7~9世紀)中国から、遣隋使によって8種類の唐菓子(からがし)と14種類の果餅(かへい[お菓子の古い呼び名])が伝えられました。この菓子は京都を中心に「高級菓子」として発達しましたが、当時砂糖は大変な貴重品!上流階級の独占品となってしまいました。 京都を中心に発展した唐菓子は、「上菓子」として徳川3代将軍家光から5代将軍綱吉の頃に江戸で全盛の時代となりましたが、江戸庶民の味として「長命寺桜餅、金つば、大福、雑菓子」等を造り出します。 一方、幕府の命令で「白砂糖」は上菓子のみ、駄菓子には「黒砂糖」のみ使用が認められる時代でした。かりん糖は、1740年頃、江戸好みの雑菓子が創作される中に、小麦粉をこね、板状にして油揚げしたものとして生まれました。 時代は代わり、明治8年浅草仲見世飯田屋が、棒状のものに黒砂糖を付けた素材で単純な甘味を売り出し大評判となり、下町一帯、日本中に広まっていきました。 |
| どうして『かりんとう』と言われるの? |
| 菓子の名前には「形・色・香り」からのものと、「食感」から付けられたものが非常に多く、かりん糖の名前のルーツも諸説あって、はっきりとはしていないのが実態です。 一説には、安土桃山時代の頃、唐人によって長崎に伝えられたものが「花林の木の色」に似ていることから「花林糖」と名付けられたとの説があり、一方「カリカリ」という鳴音をそのまま「かりんとう」と名付けたとの説があります。 この「カリカリ」の「鳴音」説は理屈ぬきの直情さが感じられ、“花林説”から始まったとも思える『かりん糖』の名前のルーツに拘らず、江戸っ子らしく気取らずにカリカリの語呂を受け入れ平仮名で“かりんとう”と表したものであろうと考えられます。 |
| 生活クラブとの出逢い |
| 「うちの生協は組合員のための本当の製品作りをしている」と生活クラブ会員より聞き、当時の開発担当だった金丸・国枝さんに何度も何度も赤提の本部でお伺いし、甘いお菓子で第1号の製品としてかりんとうが誕生しました。 共同購入でものすごい反響で、みんなでびっくりした思いがあります。 |
| 消費材ができるまで |
まず製品のコンセプト作りから始まり、甘いお菓子を敬遠されていた関係上、甘さを押さえたもの。そして安心出来る製品作りからSマークの消費材を出来るだけ使おうという事になりました。そして出来たものは、甘さを30%カットし、Sマークの蜂蜜を使用したあっさりとしたかりんとうが誕生しました。(揚げ油もSマークのなたね油との計画でしたが、ラインの関係上難しく米油にしました。) |
| 生活クラブとの提携・現在とこれから |
| 時代のニーズを一足早く取り入れ、組合員の事はもちろん、地球環境まで含めた将来の事を掌握された活動をされている生活クラブとの提携は当社にとって大変勉強になり、欠かす事が出来ない状況になっております。 これからもより一層お互いの提携を強く密にして時代のニーズに合った製品開発に取り組みたく切望しております。 |
| 私たちが扱っている消費材の一覧です |
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まず製品のコンセプト作りから始まり、甘いお菓子を敬遠されていた関係上、甘さを押さえたもの。そして安心出来る製品作りからSマークの消費材を出来るだけ使おうという事になりました。





